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*闔廬数十年にもおよぶようになりました。戦いの形態も、国境線沿いの小競り合いといった規模のものではなく、相手国の首都に向けて、何千里にもわたる長い距離を一気に侵攻する作戦が行われるようになったのです。戦車に代わり、機動力のある歩兵や騎兵が中心となり、武器も、非常に殺傷力の高い弓矢である弩どが開発されたりしました。呉の王、闔こ廬りに*仕えた兵法家で思想家の孫武は、そのような戦争の変化に深い思いをいたしました。そして、「戦争とはそもそも何なのだろうか」「人間とは何なのだろうか」ということについて、哲学的な思索を深めていったのです。それが、『孫子』に結実したと言われています。『孫子』は全十三篇からなっています。当初は八十篇以上あったとも言われていますが、後世の人による編集も入ったと思われ、現在残っているのは十三篇です。最初に置かれているのが「計け篇」。全体の序文であり、戦争に対する基本的な考えや、戦いを始める前の準備の大切さが説かれています。これに続き、「作戦篇」「謀ぼ攻こ篇」「形け篇」「勢せ篇」「虚実篇」「軍争篇」「九き変へ篇」「行軍篇」「地形篇」「九き地ち篇」「火か攻こ篇」があり、最後に、戦争におけるスパイの重要性を説いた「用よ間か篇」が置かれています。十三篇の構成ですが、順番についてはいろいろな説が唱えられており、その順番に意味があるのか、ないのか、実のところよく分かってはいません。ただ、おういうういんんう9いようゆうゆう弩(『武経総要』)?~紀元前四九六。「闔閭」と記されることもある。春秋時代の呉の六代目の王。春秋五覇のひとり。孫武を起用してその兵法を採用し、楚を破る。のちに越王句(勾)践(こうせん)に敗れ、息子の夫差(ふさ)に復讐を託して死去。

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